幼少時代~動物好き少年~
子供の時から動物が好きだった私は、小さい頃から単純に、大きくなったら動物のお医者さんになりたいなと考えていました。小学校の頃などは、下校途中に猫を拾ってきたり犬を拾ってきたりで、ほとんどの期間、家では何かの動物を飼っていたと思います。近くの山に捨てられていたウサギを拾って飼っていた時期もありました。
小学校高学年の時に、ドラマの影響で北海道にあこがれ、以後、さらに単純に組み合わせ、北海道の田舎で動物のお医者さんをするというのが将来の理想になりました。
北海道で動物のお医者さんになりたいという漠然とした目標のまま高校に上がり、いざ大学受験という状態になると、自分の学力と獣医学部のレベルの差を思い知ることになります。結局、受験した獣医学部はすべて不合格。浪人生活を送りながら再度来年頑張ろうと思い始めていた時に、偶然、北海道の私大の2次募集の話を聞きました。聞いたこともない大学でしたが、合格すれば北海道で学生生活を送れるということもあり、ためしに受験することにしました。大して考えもせず受験した学部は歯学部。緊張の糸が切れていた時期に受験した2次募集の試験は、本当に軽い気持ちで受験していたと思います。
本当は、北海道に受験に行きたかったのですが、会場は東京でした。かなりの人数が受験していて、募集人数も少なかったということもあり、会場では、来年獣医学部の受験を頑張ろうかくらいの気持ちで、緊張もせず試験を受けた記憶があります。
まあ、たいしてして期待もせずに受験した歯学部でしたが、ふたを開けてみれば、僅か10人(だったと思います)の2次募集の合格者に自分は入っていました。大学から、合格の通知が来た時は、北海道で学生生活が送れるという喜びが強く、これから歯医者になるんだという使命感はあまりなかったと思います。
歯学部入学へ ~大学生活開始~
2次試験での合格者は、合格発表から入学までそれほど期間がなかったように記憶しています。何が何だかわからないまま、歯学部入学を決めた私は、これまた何が何だかわからないまま北海道へ渡り学生生活を始めることになりました。安アパートで独り暮らしを始めた私は、陰で母が入学までの間に入学金集めで大変な思いをしていたのをたいして知らずに、大学生活をあこがれの北海道で始めることになりました。
6年間の大学生活は、他の学部の出身者からすると考えられないくらい忙しいかりカリキュラムで、専門に上がると、ほとんど毎日実習があり、夏休みなどの休みも少なく、かなり充実した学生生活で、もともとかなり手先も器用だったこともあり、学年が上がるごとに、だんだん歯科医師になるんだというような実感がわいてくるような、そんな毎日でした。
親戚のおばさんが北海道の日高というところで牧場をしていたので、大学に上がった初めての夏休みは、そのおばさんのところで住み込みでアルバイトをさせてもらいました。もとから、動物好きで牧場なんかの環境にあこがれていた私は、初めての夏休みのほとんどをおばさんのところでバイトし、そのお金で小さなバイクを買い、そのバイクで北海道をくまなくツーリングすることになります。
勉強をそつなくこなし、長期の休みには、牧場で半分バイト、残りをテントと寝袋をバイクに積んで、北海道をぐるぐるツーリングして回るというような学生生活を送り、学校が終わってからはコンビニでバイトをしてツーリング資金をためるという感じで順調に学年をあげ、これまた大したトラブルもなく順調に卒業し、国家試験に合格し晴れて歯科医師免許を手にするまで、順調に進みました。
卒業後の進路をどうするか考えていた時に、勉強が楽しく感じていた私は、大学院に進みたいと考え、両親に相談しようと思っていました。ある時それとなく聞いてみたところ、6年もの学生生活、しかも私立の歯学部にかかる費用で、実家の家計は大赤字で火の車だという実情を知りました。わが母校は、私立の歯学部の中では学費や入学金が少ないほうといえ、普通のサラリーマンの家庭の子供の私なんかが簡単に行けるところではなかったのです。私自身も、借りられる奨学金はすべて借り生活費に充てていてさらに、卒業する少し前までコンビニでバイトをしていました。奨学金は卒業してからの自分の返済する総額にびっくりしたぐらいでした。
大学院は無理と悟った私は、進路をできるだけ早く独り立ちし、収入を得ることができる施設での研修に切り替えました。当時私には、大学の医局に普通に入局すると、その専門しか学ばずに、ある程度の診療が全般にわたってできるようになるには、かなりの年数残らないといけないイメージがありました。
卒業まで何とかと、頑張って大学資金をやりくりしてきた両親に、あと数年、学生生活みたいにお世話になるわけにはいきませんでした。かといって、基礎ができていないまま、卒業してすぐ開業医に勤めるのはいろいろな面で心配でした。鉄は熱いうちにうて、の言葉通り、卒業してすぐはしっかりした技術や知識を身につけたかったのです。いろいろリサーチした上で、結局、幅広く専門に偏らずに学べる、当時としては珍しかった、総合診療科的な、大学の付属クリニックの歯科で、臨床研修をすることになりました。
当時、付属クリニックでの研修の評判は悪く、研修医が過労で倒れて亡くなっていたり、厳しい研修で余り残る人がいないという、今思うと少し間違った情報が流れていて悩みましたが、そんな厳しい環境で幅広く知識と技術を学びたかった私は、最終的には付属クリニックでの研修を卒業後の進路として選択しました。
大学卒業後 研修医から北海道時代
大学を卒業後、大学の付属クリニックに、卒後研修医として入局したのは、平成7年の春でした。入局した医科歯科クリニックの歯科は今でいう総合診療科で、研修医は指導医にあたるいろいろな専門をもった先生に個別につきながら、幅広く一般臨床を学ぶわけです。保存科出身の先生もいれば、外科出身の先生もいる、補綴科出身の先生もいるという何でもありの医局でした。そういうところで、4年ほど籍を置き広く一般臨床を学び、その時教授だったのが今でもインプラントのオペのときにお世話になっている田中先生です。
研修医時代は、その日のうちに帰れるのは年に数回、診療後のほとんどが技工室で夜中まで技工をするといった感じで、本当に大変な毎日を送りました。毎日毎日、日中自分たちが行った診療の模型から、患者様に入るいろいろなもの、詰め物だったり、かぶせ物だったり、義歯だったりを、夜中までかかって作るわけです。それは学生時代の実習とは比べ物にならないくらい大変です。
そういう感じで臨床を学びながら診療をしても、大学からは昼代にもならないくらいの給料しかでないため、生活のためにアルバイトをして生活していくわけです。私はバイト先に、札幌より北に約150Kmの羽幌というところの、教授と仲が良い開業医の先生の所のところにお世話になっていましたが、遠方へのアルバイトは移動がかなりつらく、院長も素晴らしい先生だったこともあり、数年後、結局そこへ常勤医として勤務することになりました。今思うと、そこの病院はほんとにすごい所で、8時から4時ぐらいの間に80~100人ぐらいの患者様が来るのです。ユニットは5台、スタッフは衛生士が2人、助手が3人、受付1人、消毒のおばさん1人、技工士1人それに、院長と私といった感じでした。かなり患者様が来ていた医院でした。数年いると、そうこうしている間に、先生の年齢とともに、来院する患者様の数も減少してきて、院長先生が院長室にこもる時間も多くなったころ、私に独立しないかという話がありました。
独立 ~過疎の町へ~
有珠山って知っていますか?サミットが開かれた洞爺湖のほとりにある活火山です。
その有珠山のある町の、町立歯科診療所の管理者として委託開業の話です。その当時、その町は有珠山が噴火した直後で、住民は避難していて閑散としており、今までいた大学から派遣されていた先生は、いろいろあり医局へ帰った後でした。私は、前からへき地医療にあこがれており、その話をすぐにOKしました。
見学にも行きましたが、世間の厳しさを知らなかったこともあり、今思えば無謀と思えるような若さで、無歯科医地区の病院に院長として赴任することになりました。
噴火の後ということもあり、いざ診療となると全く患者なんてきません。1日4,5人です。そんな毎日が、2、3か月はあり、その後、徐々に7,8人、1年後には1日15人ぐらいと、患者様は少しずつ増えるものの、勤務していた時の忙しさなんて全くありません。はじめは、ノイローゼになりそうでした。悪戦苦闘しながら、町も噴火から復興していき、私も町に溶け込む努力をしていくうちに、結果としては、患者様もだんだん増え、充実した毎日を送れるようになってきました。町立歯科時代は、本当にいろいろな努力をしてきました。
町の人口は3200人、町にいる若い人は、農家の跡取りか、役場、農協のどちらかに勤めているといった町で、若干29歳で町立歯科に行ったのです。受け入れられるわけがありません。町中の人が、今度来た先生はどんなやつだ。と遠巻きに見ている感じです。町中どこへ行っても、私が知らなくても向こうは町立の先生って知っているのです。最初は、知っている顔の人にしか挨拶しませんでしたが、そんなことをしていると、今度の先生は無愛想らしいという噂が町に流れるのです。最初は戸惑いました。
都会では、町を歩く人にまで挨拶していると何かの勧誘かと怪しまれます。それがその町では、運転しながら車からも手を振るといった感じです。
診療も、本当に綱渡りの連続でした。自分の手に余る患者さんでも、見てくれる歯科医院は近くにはありません。分からないことがあると、ちょっと待っていてくださいと、院長室へ戻り、本を広げて参考にするわけです。そして、そんなそぶりも見せず、治療をするといった感じです。
もともと本は大好きだったということもありましたが、近くに困った時に頼れる人がいなかったということもあり、参考書の類はものすごい数を買い、読みあさりました。本当に、いろいろな分野の本を読みあさりました。広さだけは広い院長室のほとんどの壁が、本棚で埋まるころには、なんとなく自信も出てきていました。
その自信とともに、だんだん町の人とも積極的にあいさつを交わせるようになり、とりあえず、会った人みんなにこちらから挨拶をするという、あいさつのこつ?が分かり始めたときには、それもだんだん苦にならなくなり、3年もすると、病院の充実とともに札幌にも勉強にも出られるようになりました。最初は、田舎で診療していることになんとなく焦りを感じていろいろな勉強会へ出席していました。
そのうち、だんだんいろいろなことを知ることに楽しみを感じるようになってきました。週末に学んだことは、さっそく病院で試してみました。聞いたことをみんな試すものですから、中には私に合わないものもあります。時には、そんな道具や材料が、倉庫にたまるわけです。
それでも、その頃の私は、田舎で最新の治療と材料で治療が受けられないのはおかしいと感じ、どんどんいろいろなものに手を出すのです。今思うと、だいぶ無駄なこともありましたが、本当にいろいろな勉強ができる環境でした。勤務していた時にはない、自分で決めて実行できる環境でした。充実していました。
結婚 ~遠距離二重生活~
仕事が充実してくると、今度は私生活に充実を求めるわけです。
そんなとき、妻に出会いました。妻との出会いの話はまた今度にするとして、結婚した私たちは、妻が住んでいた札幌と私の町の間の150kmの遠距離通勤になることになりました。さすがに毎日通うのは無理です。妻も札幌で歯科医師として歯科医院の責任者を任されていて、私が妻のいる札幌に帰る時や、妻が札幌から私のところに来る時など、双方が仕事をしながら行き来するのです。
北海道には冬もあり、そんな生活が長く続くわけがありません。はじめはどうするか悩みました。その頃は町の病院も順調に行っていたこともあり、一緒に町立歯科をやることも考えましたが、都会育ちの妻に、田舎でのいろいろ厳しい(?)規制のある生活は無理と考え、私が病院を辞め、札幌に行くことも考えていました。
そんなとき、妻の所属する病院グループのひとつの病院で、夫婦で一緒に雇ってくれるところがあるという話が舞い込んできました。
宮城へ ~仕事より二人の生活を~
当時、妻は日本中に組織がある病院グループの歯科に勤めていました。北海道でも地位のある立場だった妻は、同じ組織の先生方に、夫婦で一緒に勤められるところはないかと、いろいろ聞いていてくれていました。そういったなか、宮城県の松島の病院で歯科医師が足りなくて困っていて、雇ってくれるということになりました。順調になっていた病院は同窓の先輩に譲り、私は妻と一緒に宮城で勤務医生活を送ることにしました。いろいろありましたが、結局妻と一緒の新天地、宮城での新しい生活にかけてみることにしたのです。
結婚して少したっていたとはいえ、なんせ150km離れた所にそれぞれ部屋がある遠距離二重生活でしたので、実質二人一緒に住むのは宮城に来てからが初めてでした。病院から近い所に家を借り、二人の新婚生活が始まりました。勤務した病院はというと、これが問題ありの病院で、毎年大きな赤字を繰り返し、設備投資もままならないような古い体質の病院でした。
患者様はあふれるくらい来ているのに、経営効率が悪く、それを理解できる管理者がいないために、せっかく来てくれる患者様を病院の経営安定に活かしきれていない、何かの改革が必要なのは傍目にもわかりきっているような病院でした。
そんな病院へ、ちょうど退職が重なった所長に当たる先生と交代で、妻が歯科の所長として、私が歯科医師として勤務したのです。田舎で独りで医院をしてきていた私にとって、その病院は驚きの連続でした。妻と二人で赤字の病院を何とかしたいと赴任したものの、古い体質の前では、目に見えて変わるところもなく、私は日に日に、また独立して自分の理想の病院が作りたいと感じるようになりました。
何かにつれて、いろいろな場面で古い病院の体質を批判する私は、結局だんだん自分の居場所を狭めていき、そうなるにつれて、妻と二人で理想の歯科医院を作りたいという思いは強くなっていきました。一度、好きなように自分を試してきた私には、病院で勤務するという狭い環境では、フィールドが狭かったと思います。
ある時、いつものようにお偉いさんに呼ばれ、みんなの前で過激な意見を言うのは避けてほしいと言われた時に、ぶちきれてもう辞めますと宣言しました。
まあ、向こうも言われても収入は下がるけど、そんなに困らなかったと思います。なんせ、過激な意見ばっかり言っている生意気な人間ですから。困ったのは妻だけでしょう。それから、宮城で、自分の理想の歯科医院を作る夢が実行に移されることになりました。
開業 ~運命の出会い~
開業すると決めても、私は宮城に何らコネがありません。少し調べるうちに、全く知らない土地で、事業を始めるのは、本当に難しいということを思い知ります。
そんな中、勤務していた病院に出入りしている業者さんから、ある方を紹介されました。
その方は、歯科材料屋の社長をされている方で、初めて会ったときから独特のオーラをもった一言で言うと変わった方でした。今思うと、その方との出会いが私の運命を変えました。
仮にMさんとお呼びします。Mさんは、最初に会ったときから、今歯科界がどんなに魅力的で、どんなに成功している先生がいっぱい出てきているかを、それはもう熱心に本当に楽しそうに話すのです。正直言って、この厳しい時代に、そんな前向きなことを話す人など業界にはほとんどいませんでした。みんな厳しいですよ、大変ですよと言う人ばかりでした。
そんな中、Mさんは、自分から、開業物件を一つ一つ説明し、その一つ一つ細かく、ここなら収入何千万、ここなら来院人数1日何人と、それはもう夢のような話をするのです。
そして、本当に楽しそうに、ここでこういう開業をしたらこうなると、事細かに話してくれるのです。
あやしさ爆発!みたいな第一印象のまま、本当に大丈夫かという気持ちで、Mさんに連れられるまま、数か所の開業候補地を見て回ることになりました。普通、開業するという話を業者に持って行ったら、どこら辺でどんな開業がしたいかを聞いた後で、物件を探し始めるのが普通だと思っていた私は、Mさんの持っていた不動産業者以上の開業候補地の情報にびっくりしていました。
候補地は、遠くは山形の北のほうまで見に行きました。その間の車の中でも、Mさんは本当に前向きな話ばかりするのです。
だんだん私もそんなMさんの超プラス思考に影響され、夢がだんだん大きくなってくるのがわかりました。Mさんといろいろな開業地候補地を回り、そのたびにプラス思考を吸収できたその期間は、今考えても本当に大切な期間になっていたと思います。本当にMさんには感謝しています。
多くの開業候補地から、近隣人口や、周りの環境から、自分の理想に近い歯科医院を作れるところはここしかないと考え決めた開業地が、今の場所、仙台市青葉区八幡町です。
Mさんには、その後もいろいろお世話になり、無事、今のような形で開業できたのもMさんのおかげです。今でもときどき病院へおとずれるMさんは、私にパワーを与えてくれる、本当に感謝すべき存在です。私の両親みたいな年齢のMさん、これからも元気であとから続く先生方に、同じようにパワーをあたえてください。いつまでもお元気でいてください。
Mさんのおかげで開業候補地も決まり、多くの方々に助けられ開業したいいづか歯科は、私の理想を実現するために、当初いろいろ考えました。
前から治療が終わってから、手鏡でここをこんな風に治療しましたと説明をしても、そのあと、洗面台の鏡でこっそり治療したところを確認している風景を目にしていた私は、治療がみんなに分かるようなシステムがほしいと感じていました。そのため、治療説明用のソフト、口腔内カメラによる説明を導入し、患者様への説明と正確な診断、被ばく量軽減のため、デジタルレントゲンを導入し、滅菌をしっかりするためには、治療が終わった後は、すべてものを滅菌するかディスポで捨てるかすることに決め、全部自分がかかるなら何が安心かを考えながらいろいろなものを導入しました。
だいぶ前に、虫歯だらけの人に、なぜこんなになるまで治療をしなかったのか聞いた時には、麻酔が痛いからと聞き、その時は麻酔より虫歯のほうがよっぽど痛いのにと思っていたのを思い出し、痛くないように麻酔ができる電動の注射器を入れ、すべての人に注射の前に表面麻酔をすることに決めたりし、すべて、自分で納得する治療のためにコストは無視してできるところから確実に実行することに決めました。
最近のエコブームからはちょっと遠ざかりますが、患者様のエプロン、紙コップ、器具を置く紙トレーなど、1日終わると大量のごみが出ますが、すべて、安心のためと思い開業当初から実行してきました。
歯科に勤めている人はわかると思いますが、関係者はほとんどの人が保険でかぶせ物などいれていません。保険でできるものに限界があることを知っているからです。私も、自分や大事な人には保険の金属のかぶせ物はしたくありません。当然、来てくれる他の患者様に対しても同じ気持ちです。ただ、いろいろ事情があることも分かっています。よりよいものを求め保険外の物を選ばれる方にも安心して治療を受けていただくために、最新のジルコニアを使用したかぶせ物も導入しています。
保険でできるものに制限があることで、最高の治療が受けれないとしたら、あなたは自分の受ける治療に制限があるほうを選びますか?
たとえば、保険でできる手術だと成功率は50%です、保険外の手術なら成功率は80%ですと言われたら、どちらを選びますか?少しでもいいほうを選ぶのではないかと思います。仮にそれが保険外でも。
もちろん、金額的に事情があり保険外を選べない場合もあるでしょう。しかし、選択肢を与えられた上で自分で選ぶのと、その選択肢さえ示されなく、保険を選択された場合は違うと思います。
私は、私の医院を信頼して来ていただき、自分で選択できる最高の治療をしてもらいたいと思っています。それがたとえ保険治療でもです。
そしてその上で、その状態を長く維持できることが一番重要と考えています。今までの痛くなったら歯科医院に行くというような考えではなく、自分の歯を守るために歯科医院に行くというような考えに変えていってほしいと思っています。定期的に通い、あらゆる歯の病気の予防を行い、その結果、痛くなるまでいかないというより、結局苦痛は少なく歯にかける費用は少なく、自分の将来の健康にもつながると考えています。
そのためにも、これからは安心して受診できる歯科医院が必要だと思います。
いいづか歯科は、そういったすべてのことを最後までサポートできる歯科医院でありたいと思っています。
これからも、歯を通じてすべての方の幸せに貢献できる歯科医院でありたい。私はそう思って将来も私の理想の歯科医院を追い求めていきたいと思っています。